もともと『ヒカルの碁』自体が、初めて読んだときに『精神体って大変だよな』と思った作品。
ヒカルに憑いた佐為が打つとして、佐為はどうやって石の位置を示すのかなぁ。
初心者に棋譜位置で言ってもわからないだろうし、指さすってのもなぁ。
絶対に打ち間違いとかあるよね。
・・・なんて思っていて。
だから『塔矢名人はネット碁を初めた』エピソードは、ちょっと面白い投影だと思ってました。
実際に石を握っていた人にとっては、不自由な感覚。
もちろんこの話は『佐為と塔矢名人の、生身では行えない対決』を実現するためのエピソードなので、『ネット碁どころかPC操作すら初心者の塔矢名人が操作ミスしないのはおかしい』なんていう瑣末なつっこみは、するだけ野暮。
そういう意味で、件の羽生名人の方は、実に『現実っぽい』エピソードですね。
ご意見などがあれば。
友瀬がこの手の話について、以前に読んで知って、以降バイブル的に扱っている話。
いつどこで読んだ内容だかは覚えていないし、細かい部分についても覚えていないので友瀬的に脚色している部分もあるが、方向性は間違っていないはず。
小説と映画との差についての文章で・・・結構昔の話にはちがいない。
- 状況は、こんなシーン。
登場人物:エージェント。
時刻:夜。
天候:雷雨。
場所:どこかの山荘。建物は真っ暗。
外からエージェントが接近。
エージェントはスターライトスコープをつけており、忍び込もうとしている。
シーンの流れ:山荘内に忍び込んだエージェントに対し、山荘に潜んでいた敵が懐中電灯の光を浴びせる。スターライトスコープの影響で致命的に目がくらんだエージェント、そのまま返り討ちに。
- ポイントになるものは『スターライトスコープ』。
アイマスク的に取り付ける電子的装置で、
受けた光を電子的に増幅することで暗闇でも視界を確保できる。
ただしその仕組み上、強い光でもそれを『増幅』してしまうため、そういうものを見てしまうと使い手は太陽を直視したような感じで、最悪目に負傷を負う・・・というもの。
- 現代ではこれも改善されていて、そういう光を受けたときはフィルタするようになっているんですが、まあそれは創作世界なので採用しない。
- 小説であれば。
上に挙げたような要素はすべて文章で表現しなければならない。
スターライトスコープの特性などについても、まさに上述に挙げたような内容をカタログ的説明and/or登場人物の説明セリフand/orモノローグを使って説明しておかなければならないだろう。
- 映画の場合。
同じシーンを一切の音声や文字を使わずに、こういう表現ができる。
『スクリーンの映像を、エージェント視線に:スコープ越しの暗視カメラっぽい画像に。
忍び込んでいく過程、警戒しているエージェントがたまたま視線を空の方向に向けた。そのタイミングで偶然稲光、それを直視してしまうエージェント。スクリーンは一瞬稲妻映像が映ったあとすぐに、真っ白に。
スクリーンの画像が第三者視点に戻る:よろめきながらスコープをはずすエージェント。目をぱちぱち&頭を振って。再びスコープをつけて、再度進攻開始。』
これによって
『あ、突然の強い光には、弱いのね。』という認識を視聴者に与えることができる。
これはどっちが優れているというわけではない:単なる手法差・演出差でしかない。
演出だから、どちらの演出をどちらの表現方法でも表すことはできる。
映画でも、文章と同じように『説明書の文章を映して文字で表現』『エージェント出撃シーンで語らせる』『モノローグさせる』などは可能。
逆に小説でも『視覚的演出』を文章で書くことだってできる。まさに上記したように。
だけどやっぱり、映画で一生懸命文字を読むのは字幕くらいにしたいし、妙な説明セリフはどうかと思う。これらはあくまで文字的な表現だ。
逆に『誤解の余地がある』視覚的表現を、わざわざ文字として織り直すのも、どうかと。
その意味では、例えば007シリーズなんてのはうまくやっていると思う。
最初のほうのQの研究室で、その回のスーパーアイテムの解説とかしてますよね。映像だけでは説明しづらいことをこれで伝えているわけです。
そのうえで、実際に使うシーンにおいては言葉は一切使わない。実際、それを使うのは往々にしてアクションシーンで、セリフやナレーションなんかは期待されてないんですね。
そういう感じ。
ご意見などがあれば。