最初に明言しておくね。
『共感』ってのは、根本的には、その個々人の経験に基づくものです。
だから、人によって共感する『状況』やその『深さ/レベル』が違うのは当然で。
以下、友瀬はいろいろ書きますが、それは『友瀬の経験・価値観』が根底にあるわけで、まさに『友瀬に共感』できない人もいると思う。
つーか、友瀬はそこまで共感できないから『デリケートすぎでは』と言っているわけで。
そういう『差は必ずあるんだ』という立場であることを、最初にご承知おきください。
#・・・と書いているこれですら、『いいや、誰だって共感し合えるんだ』って人すらいるんじゃないかと思うよ(笑)
で。上記『共感性羞恥』について。
友瀬だって例えば、多くの創作物に必ず含まれる『苦境』に『きゅっ』とくることは、間違いなく・多々、ある。
多くの創作物のクライマックスに『感動』して『ほろっ』とくるなんてのも、同様。
そういう『共感』自体は、誰にだってあるはずの当たり前のこと。
だけど今回の、共感の結果『恥ずかしくて見ることができない』というタイプとなると、正直ちょっとどうなのかな、と思うわけです。
『恥ずかしい』と感じる、ここまではいいんだけど。
『見てられなくて、シーンスキップしちゃう』というようなところの話ね。
例えばね。
『殺人』『拷問』『ホラー』『残虐描写』『レイプ』・・・というような映像。
『人が壊される』世界であり、少なくとも日本で日常生活してたら出会えない映像。
これに共感して、怖くて/可哀想で見れないとかなら、わかる。
同様に、例えば『精神的イジメ』を描いた作品で、『精神的に追い詰められて壊れる』シーンが耐えられないってのも、わかる。
だけど、例えば上記の例にある『授業中居眠りして失敗』なんてのは、違うよね。
確かに、『先生に怒鳴られて』『級友にからかわれて』精神的に苦痛、ってのはわからんじゃない。
でもさ。これって、自慢できる話じゃないだろうけど、誰だってやらかしたことのあるような。
そしてほとんどの場合『致命的ではない』失敗だよね。
この程度で『見ていられない』って、どうよ。
ちょっとデリケートすぎないかね?
# 某マンガには『恥ずか死ぬ』っていう名台詞があるけど(笑)
もしかしたら『居眠りした』ことが原因で、学校に通えなくなるような傷を負った人もいるかもしれない。
そういう人は、確かに『いたたまれない』だろう。
だけど、そこまでの人が『10%』もいるとは思えないんだよね。
だとしたら、最初にもちょっと書いた通り『精神的マッチョ論』になっちゃうけど。
自分の過去のやらかしもひっくるめて、『あ〜、あるある』って感じに笑い飛ばせるようになったほうが幸せじゃないかな、と思う。
ちなみに、さ。
上記記事内 Twitの流れには『昨今の芸能界のイジメ的話』として嫌悪するようなコメントもあるけど。
いわゆる『笑わせる』と『笑われる』の差はあるし、それが低俗かどうかという価値観差はあるにせよ。
こういう『マヌケを笑う』ってのは、昔からある文化だよ。
例えば、落語の『ときそば』。
さすがに知らない人も少ないだろうからネタばれ的に書いちゃうけど。
『うまい詐欺師が、ちょっとマヌケな店員をだます』のを笑い。
『その詐欺師を真似たマヌケな男が、自爆する』のを笑う話。
後半のほうは店員側もアレな感じで、いわゆる『ボケ倒し』の色もある。
上記『恥に共感していたたまれない』人は、この『ときそば』、どう感じるんだろう。
やっぱり『恥ずかしくて聞いていられない』のかな。
ご意見などがあれば。