主張:商取引は、本来互いに同等。 †
コンビニ店員の態度に不愉快と説教 過剰な要求か
http://netallica.yahoo.co.jp/news/49386
不愉快を感じるのは勝手だけど、説教もどうかと思う、ってとこかな。
なんていうか、前に言った『お客様は神様ですの取り違え』だと思う。
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もちろんここの記事に見える範囲だから、どちらがどれくらいアレなのかはわからないけどさ。
なんとなく、こういう光景が目に浮かぶんだよね。
むすっとした感じでレジに来るにーちゃん。
財布の中をのぞきながらボソッと『まーるぼろ。』
聞き取れないおばちゃん、『うん?』
にーちゃん、眉間にしわを寄せて『煙草のまーるぼろください』
おばちゃん、やっぱり理解できず。『何番?』
にーちゃん、一層不機嫌になって『78番。』
・・・何が欲しいのかわからないお客様への対処に困っているおばちゃん、という感じかな?
コンビニのおばちゃんだって、万能じゃない。
78番ってことは、その時点で70種以上のたばこがあるってことで。
そんなのすべて暗記できていると思うほうが間違っている。
ましてや普通の日本人は『マルボロ』の『マ』を伸ばして発音はしないんじゃないかな?
聞きなれない単語で、どれを指しているのかわからなくたっておかしくはない。
もちろん、おばちゃんだって無実とはいわんよ。
確かに『うん?』という言葉は敬語じゃないからNG、という意見はわからんじゃないし。
毎日・一か月来て同じ注文をしているのであれば、『あの人だからあのタバコ』とわかったっておかしくない。
ましてや『わかりにくい』発音をする、『区別しやすい』相手なんだから。
そういう意味で、文句をいいたいにーちゃんの気持も、多少はわかる。
だけどさ。本質的に、客は『店にモノを売ってもらっている』のよ。
その感謝がこのにーちゃんにあるか?と問われたら、かなり疑問がある。
ご意見などがあれば。
雑感:苦しい問題だ・・・ †
「トイレ介助断られて…」 福岡・小1殺害容疑の母説明
http://www.asahi.com/national/update/0924/TKY200809230236.html
これは極めて不幸、としかいいようがない。
介護というものは、子供1人だけに頼るには厳しい部分もあると思う。
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友瀬は正直、いわゆる『いい子』なほうだったけれど。
あらゆる面で『いい子』だったわけではない。
悪とまではいかないが、言いつけを守らなかったりしたことは、それこそ思い出せないくらいたくさんある。
子供なんて、そんなもんだよね。
だからまあ、今回の小学生の子にとっては、ごく普通にあり得る範囲の反応だと思う。
だけど、介護となると、そうもいかない。
『お風呂洗って』と頼まれたのを守らなくても、親は苦笑いしながら自分でやることもできる。
反省を促すために、一日やそこら風呂をあきらめたって、いい。
だけど、介護となると。
その『1回』が許されないのだから。
もちろんこの母親だって人の子。
少々のことは我慢していたんだろうし、しかし繰り返しの結果我慢できなくなった、というところではあるのだろう。
・・・こう考えたとき、何が理想の道だったのか?
そう考えると、答えは出しづらい。
- 子供が、果てしなき愛情を持ってつくす?
- それは、無理だろう。
学校に行っている間はどうする?
風呂に入っている間はどうする?
友達と遊ぶ・勉強するときはどうする?
・・・子供は親の所有物ではない。
- 親が、果てしなき愛情を持って、妥協する?
- それも難しいだろう。
そもそもそれができるのならば、子供に介護を頼むとは考えづらい。
- 子供の負荷を下げるために、他の誰かに助力を乞う。
- ある意味妥当な道だが、この場合ネックは2つ。
金銭面で支え切れるか、という問題。
24時間対応は無理なので、やはりどこかで子供の助力は必要。
つまり、程度は下がるものの本質的問題は残ったまま。
結局両方が妥協するしかないんだけれど・・・
頑張っても、完全に報われることがない、というのが、悲しすぎる。
・・・難しいねぇ。
ご意見などがあれば。
主張:友瀬の思想の限界に関わるところ。 †
考えない人間ばかりで日本は大丈夫か
http://japan.cnet.com/blog/mugendai/2008/09/24/entry_27014995/
ああ。これは考えさせられる。
すべてがそうだとは言わないが、思い当たるところも多々ある。
書き方自体があいまい・幅を持っているので、程度の差はあれ多くの人が当てはまる『占い』的なところはあるけれど。
無視はしてはいけないような気はする。
以下、上記記事にある『誇大自己症候群』の症状について、友瀬的に自己診断&思うところのメモ。
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- 自分のこと、自分の関心のあることばかり話したがる。逆に、自分の事が話題になるのを極力避けようとする。
- 『関心のあることばかり』については、そりゃーそうだろう。
自分の関心のあることは知ってるから話すし、関心がなければ知らなくて話せないのが当たり前。
他の人の意見に対してだって、相槌は打てるけれど、新たな関心を持てるか否かは話題や話し方次第。
面白さが伝わってこなければ、なかなか興が乗らないのは仕方がないところだろう。
- まあそういう意味で、なんにでも興味を持つ、というのがいいのかな?
いちおー、現状でもいろいろ努力しているところではある。
仕事をしていると、そのことばっかりになりがちだから。
- 逆に、求められていないときは話さない、ってのはあるだろうね。
これは、状況によってのところもあり、難しい。
話題提供は悪いことじゃないと思うし、それに『相手が関心をもつか否か』はこちらだってわからない。
そしてそれを警戒して『お互いに何もしゃべらない』なんてのは、日建設的過ぎる。
まあやりすぎはよくないってところか?
- 『自分のことが話題に』ってのは・・・よくわからない。
同意は照れ臭い、批判は苦しいけれど知っておく価値がある、という感じで、いくらでも聞く気構えはあるけれど。
でもやっぱり、痛いところ図星をつかれたら、動揺から行動が『荒れる』であろうことは、否定できない。
- 大げさな表現や大きなことを口にしたがる。ありふれたことではなく、普通の人が言いそうにないことを、さらっと言ったりする。意表をつくような、周囲があっというようなことをすることがある。どこか現実離れをした話をしたがる。
- どうだろ?
確かに『言いにくそうなことをさらっと』いうことはあるけれど、一応は現実に即したことしかいわないんじゃないかな?
友瀬はある意味で現実主義。できないことはやらんし言わないよ。
- 理屈っぽく、理詰めで話をする傾向がある。すぐに法律や専門的な知識を持ち出して、物事を論じようとする。話し方にも、自然な感情や思いやりに乏しい。逆に、感情を過度に煽るような、少し芝居がかったしゃべり方をする場合もある。
- あ〜。『理屈っぽく思いやり・配慮に乏しい』ってのは、あるね。
意見は意見として、言うことにしているし。
- 芝居がかったってのは、自分ではわからない。
人の感情をあおるってのも、自分ではそんなつもりはないけれど、
『感情配慮に乏しいがゆえに、相手の感情をあおることに気がつかない』ケースはあるかもしれない。
- 過度に丁寧だったり、過度に傲慢な態度をとる。最初は緊張が強く、よそよそしくて警戒的だが、いったん話し出すと、ぺらぺらとよく喋り、急になれなれしい態度をとる。まだ、よく知らないのに、過度に相手のことを理想化したり、褒めたりすることもある。
- 過度に丁寧/傲慢ってのは、たぶんないなぁ。これも自分のことは見えないかもだけど。
自分の思うところを発言することは、決して傲慢ではない。
相手に一切意見を言わせない、俺だけが正しい、という動きこそが傲慢だと思う。
- 緊張が解けるとよくしゃべる、っていうのは、多少はあるかも。
つーか、しゃべれないと社会で生きていけないからね(^^;
- 他の相手を理想化するってのは、あんまりないかな。
むしろ、人のことを褒めることが苦手というところこそ、友瀬の大きな欠点かと(^^;;;
- でもどうしてこれが当てはまると『誇大自己症』なんだろう?
自己が誇大だったら、他の人を認めることができない方向に行くような気がするんだけど。
- 少しでも自分の言ったことにケチをつけられたり、軽くあしらうような言い方をされると、そこにこだわった反応を示したり、顔色が変わる。
- これは、あるんじゃないかな。
つーか、これは誰だってあるよね。
どーでもいいと思っているところならともかく、自分が真実こだわっているところをないがしろにされて、へらへらしているほうがどうかと思うよ。
- 自分のやり方にこだわりが強く、融通が利かない。物事の見方や関心、視野、活動領域、価値観が過度に固定し、それを広げようとしても強く抵抗する。潔癖で完全主義の傾向がみられる。
- 『こだわり』は、確かにあるなぁ。
融通はある程度きかせているつもりだけれど、本質的に頑固なのは、まったく否定しない。
- 『活動領域』に関しても、それなりにある。
だからこそ、わざわざ『年に一度は普段行かない場所に行く』とか、『仕事じゃないことについて知識集め』とかしているわけだし。
そういう意味では『広げる』ことについての抵抗は少ないと思う。
- 『視野や活動範囲・価値観』を他に広げるという点については、不本意ながら、そこそこにある。
これについては、ある意味『思想の矛盾』。
友瀬は『他の人の価値観を否定しない』っていう考えを、ずっと言っている。
でもこれを言うこと自体、『相手への押し付け』のところはあるわけで。
- 『完全主義』かと言われたら・・・どうなんだろう?
器用貧乏って、ある側面では完全主義だし、ある側面では不完全容認だしな(笑
- まちがっても、潔癖ではない(^^;;;
- だけどこれだって、程度の差はあれ誰にだって、特にある程度年齢がいった人なら、ある傾向だと思うなぁ。
特に『自分の経験に基づいた頑固さ』ってのは、誰だって多少はある。
まあ、そこを柔軟になれ、ってところなんだろうね。
- 家族や身内を過度に理想化しているか、過度に嫌っている。友達に対しても、心から信頼するというよりも、どこか表面的だったり、自分の都合で相手を利用しようとする。
- 家族については、びみょ〜。
間違いなく『結構いい家族』だと思っているが、それが過度かどうかは、わからない。
- 友人については・・・信頼しているつもり。
だからこそ、普通は言わないようなわがままだって言ってるし、無理だって文句言いながらも受け入れてるし。
いうなれば『身内』として扱っているところは多く、
どっちかというとビジネスライク・ドライな『利用』という観点では、まちがっても、ない・・・つもり。
つーかそれができないから、『自分だけが好きな』同人活動は基本的にソロなわけだしな(笑)
- これって要は『誇大自己』==『自分は素晴らしい』==『自分の身内も素晴らしい/外はダメ』ってところなのかな?
そーゆー意味では、友瀬は割と身内びいきだし、友人も身内だと思うほうだけどね。
- 些細なことで機嫌を損ね、立腹する。そんなときは、普段とは全く別人のように、態度が豹変するのが特徴である。
- これは、わからん。
異論・不平をいうことを『立腹』と言われたら、友瀬は即NGだ。
けど、本当に腹を立てたときなんてのは、たかが知れている。
- 気まぐれに、考えや決定がころころ変わる。だが、相手が決めることは好まず、自分が決定権を持とうとする。
- これは、ないはず。
『他の人の意見が嫌だから反対』ということは、友瀬は絶対にしない。
あくまで自分の趣旨で動いているから、考え・決定が変わるほうが、少ないはず。
決定権だって、状況次第。
- ただしこれは、『人から見たら』どうだかわからないところではある。
自分の意見を言うことを、『その場を支配したがっている』と取られたら、それは仕方がない。
- 相手によってひいきをしたり、態度が違う。従順で思い通りになる相手は、お気に入りであるが、自分の意思を持った存在には、批判的で激しく嫌う。(岡田尊司著「誇大自己症候群」ちくま新書)
- これは、本質的には、ない。
『意見/行動の批判』と『人の批判』との差は果てしなく大きい。
前者はある一部分であり、後者は全体的な問題だ。
確かに、自分の意見と違う『意見』については、異論を言う以上『意見への批判』と取られても仕方ないときはある。
グループの意思決定などでは、自分がやりたくないことはしばしば発生して。
その場合には、言うくらいだから自分としてはそれがいいと思っているのだから、可能ならば自分の意見を採用してもらいたいし、ゆえに相手の意見の問題点を指摘することはあるわけだから。
だけどそれは決して、自分とは違う意見を持つ『相手の存在』について、批判をしているわけではない。
- だけどこれも、前述と同じく『人から見たら』ってところはあるだろうね。
『意見の批判』を『人の批判』と取る人だっている。
ご意見などがあれば。
雑感:携帯小説に思うこと。 †
『雑記』というよりは『主張』なのかなぁ・・・カテゴライズは難しい。
日本ケータイ小説大賞:第3回はkikiさん「あたし彼女」
http://mainichi.jp/enta/art/news/20080925ddm041040125000c.html
“「こんな小説読んだことない!」と絶賛の声” 日本ケータイ小説大賞、「あたし彼女」に決定 (2chコピペブログ)
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1177807.html
「ケータイ小説」ブーム終わったのか ベストセラー減りドラマ「恋空」大コケ
http://www.j-cast.com/2008/09/25027513.html
上記2chコピペブログにあった、『あたし彼女』の冒頭部分を見ていて、思ったこと。
携帯小説は、小説じゃ、ないんだよね。
これの意味するところは侮蔑・否定的なモノではなく。
『マンガは、小説じゃないんだよね』というのと同じレベル。
表現方法が違うのだから、同じものとして扱うのはよくない、というニュアンス。
そう考えると、いろいろとつじつまが合うところもある。
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上記の『あたし彼女』の抜粋を見る限り、友瀬的にはかなり読むのは厳しいように思う。
だけどこれって、『マンガを読む奴の気がしれない』っていう年寄りと同じなのかな、と。
文章で物語を読むことが理想と考える人たちが、マンガの絵による情報の価値を理解できないのと同様に。
携帯の狭い画面を使ったメール・ブログのような口語表現を、友瀬が理解できないだけではないのか?という可能性。
ただどちらにせよ。
絶対的な情報量的には、不利は否めないようには思う。
また、いわば『行き当たりばったりの週刊連載』的な、つじつまのあわなさという点も、苦労しているようには見える。
そういう意味で、携帯小説が面白くても、それを映画などの映像作品にした場合に、どれだけ面白いのかは疑問。
そしてそれを映画&テレビという、似たような二つに分けてしまうのは、苦しそう。
・・・性格的には、区切りをつけやすいテレビ向けなんじゃないかな、とは思う。
ご意見などがあれば。