友瀬の荷物の中には、大昔:義務教育時代や大学時代につけていた日記のようなものが、何冊かある。
決して量的には多くはないし、期間もとぎれとぎれ。
内容は・・・『お小遣い帳の延長』『親にバカにされた反抗心起因』
『ゲームデザインメモ』『お絵かき練習帳』
・・・といったもので。
それをつけようと思い立った理由がわかるのも、恥ずかしくも微笑ましかったりする。
ただ明らかなのは、これが紙であることの大きさ、だろうか。
特に顕著なのは、高校〜大学のころのものだ。
そのころにはすでにPCにどっぷりの生活を送っていた友瀬。
メモにもPC上のゲーム作成に絡んだメモが結構残っているし、それを読むと実際に動いていたものを思い出せる。
・・・でも、今やそのプログラムも、それを動かせる環境も、手元にはない。
あるのは思い出だけだ。
この日記的サイトに使っているデータ構造が20年後に読めるかどうかわからないし、
データが残り続けるか、って話もある。
そもそも過去を振り返ることに、どれだけの意味があるかはわからない。
だけど例えば20年後に友瀬が自分を振り返ったとき、
紙時代の分しか『記録が残っていない』姿は、やはりさびしいものだろうと思う。
ご意見などがあれば。
介護には、いろんな『きつい』要素がたくさんある。
容易に想像できるのが、排泄・入浴と言った衛生面の世話。
仕方ないこととはいえ、他の人のそういうモノに手をだすことに抵抗のない人は少ないだろう。
そして人間、生きるだけだっていろんな行動をしている。
食事排泄、入浴はもちろんだが、それだけではない。
寝返り。姿勢変更。
こういう『普通ならば考えてもいないような』行為。
そして介護が必要な人間は、こういうことも自分ではできないのだ。
さらに。
人間、60kgの自分の体を動かすことは大した負荷ではない。
だが50kgの他の人の体を動かすことは、かなり大変だ。
こう考えていくと、介護の世界の苦しさもわかるだろう。
介護される人間にとって理想の環境をつくるには、常にパワフルな誰かが張り付いている必要があり。
1日24時間、いわゆる『8時間労働』を考えれば、介護対象者の3倍の人間が必要で。
それだけの人間を支える予算は、どこから出るというのだ。
健康な人だって、自分の生活を支えるほどの年金は手に入らないというのに。
こういうものこそ、税金の使い道だと思うよ。
ご意見などがあれば。